VOL35.「稲の話」
私は、“自然愛好家”と言うよりも、“自然崇拝家”である。
自然界の仕組みに対して、“崇拝の心”を持っている。
さて、少し、稲の話をしよう。
稲の実の部分、つまり、米を包んでいるのはもみ殻。
もみ殻の主要元素はケイ素(Si)である。
ケイ素(Si)はガラスの主成分でもあるが、非常に硬く、熱にも強く、
外界の変化に対しても頑強な強い元素である。
稲の一番大事な部分である実(つまりは、米)、
それを包んでいるもみ殻は、この頑丈なケイ素(Si)で守られている。
言い換えると、
『私たち人間の命を作ってくれる米は、
この頑丈で屈強なケイ素で守られている』
と言える。
一方、もみ殻以外の部分(茎とか稲穂)には、このケイ素の存在は認められない。
もみ殻だけに、ケイ素が存在する。
よく考えると、これも不思議な話だ。
ところで、このケイ素はどこから来たかと言うと、土から来たもの。
つまり、稲は、土の中の無数にある元素の中からケイ素を特別に抽出して(選び出して)、根っこから吸収して、茎を通過して、“籾殻の部分にだけ”ケイ素を溜め込んでいるのである。
何と凄いことなんだろう・・・・・
神秘的だ・・・・・
とてもとても、人間技では出来ない。
もちろん、機械にも出来ない。
それを自然界では、いともかんたんにやってのけている。
話は変わるが、雷の原理も凄い。
まだ、あの原理は詳細に解明されていないようだが、
水のプラズマ分解により、あの雷のエネルギーは生まれる。
水からあのような莫大なエネルギーを作り出す自然界の仕組みは本当に凄い。
工学部原子核工学科出身の私は
“自然愛好家”と言うよりも、“自然崇拝家”である。
自然界の仕組みに対して、“崇拝の心”を持っている。
「自然を守れ!」・・・とか、
「自然を保護しろ!」・・・とか、
そういう考え方は良いとは思うが、
その考え方の中では、
「自然界に対して人間の方が上に立ち、人間が自然界を支配する・・・」
そういう行き過ぎた考え方に陥りやすい。
むしろ、逆で、
『人間は自然界に従属しており、
自然界の仕組みの中で人間は暮らさなければいけない』
はずだと思う。
あくまでも、“主”は自然界で、人間はその上で踊っている“従”の存在だ。
したがって、自然界にとって良いことは、
“人間がそっとしておく”
あるいは、
“人間が邪魔をしないこと”
であると、私は思う。
子供の教育と同様で、
親が「ああしろ!こうしろ!」と言うよりは、
“静かに見守る”
ことの方が子供の成長を促進するように・・・。
我々人間は、本当にちっぽけな存在。
それに比べて、自然界の仕組みは本当に偉大だ。
我々は、
崇拝の心・・・、畏敬の念・・・
学びの念・・・、そして、
感謝の気持ち・・・
常に、持ち続けなければいけないと思う。
私が好きな諺の1つがこれである。
↓↓↓
『実るほど、頭を垂れる稲穂かな』
常に、謙虚に生きたいものである。