みなさまこんにちは。
エコウェブ担当 ナカヤマです。
いつもエコウェブをご覧いただき、誠にありがとうございますヽ(^-^ )
日ごとに暑くなりゆく今日この頃ですね。
脱水症状や熱中症には皆様、十分にご注意ください。
さて、日本語というものをまじめに学んでみたいと思うようになってから、
関連書籍をだらだらと読み進めているのが、最近の読書傾向です。
先日読み終えたのが、「日本語教室」(井上ひさし 著)。
井上ひさし氏が、母校の上智大学で講演したものを本にしたものです。
講演の語調が基本なので、ものすごく読みやすい。
・日本語はいまどうなっているのか
・日本語はどうつくられたのか
・日本語はどのように話されるのか
・日本語はどのように表現されるのか
おおまかな目次はこうですが、中身は細かいテーマに分化し、
また、ちょくちょく脱線してくださるのも面白いです。
次から次へ繰り広げられる、様々なテーマがどれも強く惹かれるものばかりで、
ぐいぐい読み進めてしまいました。
特に印象が強かったのは、「権利」と「自由」という言葉について。
明治になってから、欧米諸国のような近代国家としての基盤が
ほぼ備わっていなかった日本は、大急ぎで体裁を整えようとした、と。
そのとき、もともと西洋にあって日本にない膨大な言葉達を、
なんとか日本語に訳して作ったのが、福沢諭吉だと。
その作業の中、どうしても訳せない、と投げ出してしまった言葉が、
「権利」、英語で「Right」。
結局、福沢さんの友人である、西周(にし・あまね)という人が、
これでいいじゃないか、と仏教用語である「権利」を持ってきたそうな。
しかし、仏教用語で「権利」の意味は、
もともとは「力づくで得る利益」のことを言うのです。
仏典や荀子では、権利は「権力と利益」の意味で使われているそうで。
つまり、もともと「マイナスな意味」を持つのに、
「Right」という非常に重要な言葉の訳として採用されてしまったと。
それを日本人は、以来ずーっともっともらしく使い続けてきてしまったと。
確かに「権利」という言葉、現在もあまり輝きに満ちた響きとは言えませんね。
どちらかというと、何かを批判したり、ごりごり主張したりするときに
よく登場するようです。
ラベリング理論的にというか、そんな風に考えると、
日本人の潜在意識の中に、「権利」という言葉はマイナスな要素として
組み込まれている可能性があります、と。
「自由」、という言葉もまた然りで、日本人はとかく、「自由」に消極的だという
イメージをもたれがちです。
なぜなら、「自由」という言葉もまた、もとは古典中国に拠り、
「我侭放蕩」、要は「自分勝手にすること」というような意味だったと。
仏教用語の「自ずからに由る」(おのずからによる)、から来ているとか。
いずれにしろ、今、「自由」と聞いて思い浮かべるものとは、
「抑えつけられているものの開放」や、「真に人間的な生き方」のような、
魅力的なイメージかと思いますが、同時にどこか背徳感のようなものを
感じるのではないでしょうか。
これもまた、元来の意味が少しくマイナスなものだからと。
言葉とは、これほどまでに、文化の根っこにあたるだと。
「言葉は道具」という風潮が流行った時期もあったそうですが、
母語としての言葉は、精神そのものですね。
決して、おそろかにしてはいけないと、改めて思いました。
井上ひさし氏のこの言葉も鮮烈です。
「おじいちゃんと孫の会話が成立しないような状況は、
避けなければならない」、と。
受け継ぎ、繋いでゆくことができなくなってしまうのは、
国として致命的なことのように思います。
まずは自分がもっと、ちゃんと日本語を使えるようにならなくては、、、
自分の日本語を、きちんと美しいものにするべく、
毎日の会話から意識してゆこうと思います。